Ubuntuは孤立化を深めるのか?

Unity、Upstart そして Mir

Ubuntuは私の記事でも紹介した通り、非常に使いやすくてユーザーに向き合っているディストリビューションと言えると思う。しかし、一方でCanonical社単体での独自開発を行ってきたのも事実である。

2月にUbuntuの源流であるDebianがinitシステムとしてsystemdを採用したことを受けて以下のような記事が掲載された。

以下、階戸明 (2014年2月14日). “問題の核心はinitにあらず ─Ubuntuの孤立”. 技術評論社 2014年2月15日閲覧より一部引用

世界で最も多くのユーザを獲得しているはずのLinuxディストリビューションでありながら,Linux関係者のUbuntuに対する目はかなりきびしい。 その理由としては,開発リーダーのMark Shuttleworthの独善的な振る舞いやCanonicalのやや残念感漂うビジネスセンスをきらう開発者が多 いことに加え,Linuxのトレンドを無視した独自の機能強化が目立つことが挙げられる。GNOMEから離れてデフォルトのデスクトップ環境をUnity にしたり,そのディスプレイサーバをX.orgではなくMirにすると宣言したり,クラウドファンディングでUbuntu Phoneの開発費用を集めようとして 大コケしたり…など,およそ”王道”のオープンソース開発,ディストロ開発とはかけ離れた行動が少なくない。そしてそれらの”異端”に見える行動は, Ubuntu/Canonicalのビジネスを大成功に導いているわけでもなく,さらにはLinux全体の進化にもほとんど貢献していない。Debianのsystemd採用は, Ubuntuをますます微妙な立ち位置へと押しやろうとしているのかもしれない。

本来多様性を歓迎するオープンソース開発がUbuntuの独自路線を非難するのは何故なのだろうか?筆者なりに考えたことを述べたいと思う。

多様性と統一性は相互補完

多様性と統一性

あらゆる現象は多様性と統一性(或いは画一性)の中で揺れ動いていると筆者は考えている。
言い換えれば「変化しようとする作用」と「変化を抑えようとする作用」の拮抗で世の中は成り立っている。

生物の進化の過程や政治の世界など、あらゆる事象に2つの作用は見られる。
政治の世界で端的に言えば、改革派と保守派ということだろう。

多様性は強靭さをもたらす

組織や生物が多様性を手に入れるということは、柔軟でしなやかになるということである。
生物の場合は環境や気候の変化、病原菌の影響に柔軟に対応し生き延びることが出来る。
組織にとっても外国人や、様々な経歴の人材を確保しておくことで、時流を読んだ判断を下すことができる。
古い石頭の老人がえばり腐ってて若手が発言できない組織に未来はないし、
遺伝子操作で「勉強のよく出来る子」などを作り出すことは種の絶滅につながりかねない。

統一性は利便性をもたらす

統一性のメリットとして分かりやすい例を挙げるならばソケットやコンセント、コネクト類だろう。
電気コンセントが設置メーカーや建物ごとに違ったら毎日の生活に支障が出る。
独創的で規格外のコンセントなど日常生活では使い物にならないのだ。
USBコネクタが製造メーカーごとに、微妙に大きさが違うという事態は考えただけでも恐ろしい。

このような分野においては規格は統一されているべきで多様性は却って邪魔になるのだ。

規格の多様化はユーザーに混乱を招く

世の中では様々な規格が生まれては消えている。古くはベータビデオ vs. VHSであり、記憶に新しいところではブルーレイとHD-DVDとの争いだろうか。高いHDD-DVDを購入したユーザーは規格が乱立し、混乱を招いた当時の状況を苦々しく思っているに違いない。

Linux開発者の多くは多様性を重視し、歓迎している。
それは、彼らが多様性の持つ重要性と強靭さを知っているからだ。
Linuxが自由で多様性を受け入れるOSだということは使っている方なら解っていただけると思う。

それにも関わらず、多くのLinuxに関係する開発者がUbuntuの動きを懸念するのは、この「規格の乱立化」だろう。
Ubuntuという非常に多くのユーザーをもちOSS界に影響のあるディストリビューションが、いわば「新しいコンセントの規格」を作ろうとしているのだ。
先の例で言えばコンセントの先につながった機器の多様化は歓迎しても、コンセントそのものの規格が変わることは開発者としては難色を示しているのである。

統一規格の上での多様性を

「今のコンセントでは限界だ。新しいコンセントの規格が必要だ。それを含めて多様性だ」
という意見は非常にもっともである。
そうでなければ新しいものは生まれないし、硬直化した組織のように死んでしまうだろう。

だが、新規格を作るならば、周囲と協力して「乱立」を避ける方向が望ましいのでは無いだろうか?
GUI環境について言えば、既にGNOMEとKDEという双璧の間で、似たような状況が生まれている。この場合はfreedesktop.orgを設立することで両者間に一定の基準を設けている。

オフィスソフトでも最近ようやくマイクロソフトがオープンドキュメントフォーマットに準拠するよう方針を変換した。
世界的な基準に準拠した上で特色を出したほうが結果的にメリットがあると判断したためだろう。

今後、WaylandとMirの2重規格化のなかで開発が進むことは、開発者の負担やコストから望ましい状況ではないだろう。そして、この調子でUbuntuが独自開発の規格を搭載し続けるならば、「Ubuntu向けの特注品は作らない」という開発者が出てくるのは必然だと思える。

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2件のコメント

  • たしか、UbuntuではDebianに倣い、Upstartからsystemd並行する方針であると聞きましたが?
    http://www.phoronix.com/scan.php?page=news_item&px=MTYwNDE

    LinuxMintやZorinOSもUbuntuベースからDebianベースへの移行方針を表明しているようですが、ユーザとして見た場合、Ubuntuの使いやすさとサポートの充実ぶりはやはり魅力的です。

    • 当ブログへお越しいただきありがとうございました。
      紹介頂いた記事はフォローできてませんでした。
      教えていただきありがとうございます。

      こうして、読んだ方から情報をいただけるのがブログを発信する醍醐味だと
      考えています。

      おっしゃる通りUbuntuのユーザーの使い勝手の向上のための実行力と柔軟性はズバ抜けていると思います。ユーザーのために、独自技術に固執しないという面もまた真なりですね。
      Debianファミリーの雄がどのように展開するのか楽しみに見ていきたいと思います。

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